◆◆◆◆◆
ルイの部屋を出ると、廊下にはミア・グリーンが立っていた。ヴィオレットがふと目を向けると、ミアと一瞬視線が交わった。
次の瞬間、彼女は何も言わずヴィオレットの横をすり抜けると、無言のまま部屋の扉を開けた。
「ミア、奥様にご挨拶をしなさい!」
執事のジェフリーが声をかけるが、ミアは振り返ることなく扉の向こうに消えていった。
「いいのよ、ジェフリー。子が泣いていては気もそぞろになるものだわ」
ヴィオレットが穏やかにそう告げると、ジェフリーは申し訳なさそうに頭を下げた。
「申し訳ございません、奥様」
「しばらく二人きりにしてあげてね」
「承知しました」
ジェフリーに指示を与えた後、ヴィオレットは廊下の隅に立つリリアーナの方へ歩み寄った。
「リリアーナ、今夜は一緒の部屋で過ごしましょうか?」
その言葉に、リリアーナは少し驚いたように顔を上げたが、すぐに俯いてしまった。
「どうしたの?」
ヴィオレットが優しく尋ねると、リリアーナは小さな声で答える。
「母上、怒ってる?」
リリアーナの言葉にヴィオレットの心が痛んだ。そっと娘の頬に手を添えながら、ヴィオレットは微笑んで答える。
「怒ってなんていないわ」
「でも……がっかりさせちゃったでしょ?」
「驚いたのは確かだけれど、がっかりなんてしていない」
「本当に?」<
◆◆◆◆◆冷たい朝の空気が、石造りの屋敷を包み込んでいた。ガブリエル・アシュフォードは、執務室の窓から庭を見下ろしながら静かに息を吐く。庭には冬枯れの木々が立ち並び、霜が降りた芝生が朝日を受けて薄く輝いている。すでに馬車の準備は整っていた。あとは彼が乗り込むだけだ。「……行くか」誰に言うでもなく呟き、ガブリエルは重い足取りで執務室を後にした。玄関へと続く長い廊下を歩く間、彼の脳裏には幾つもの考えが渦巻いていた。今から、アウグスト・デ・ラクロワに会いに行く。それなのに、彼の心は沈んでいる。――セドリックには話せなかった。アウグストが王立学園の学友だったことを。「……情けないな」小さく呟く。取り巻きの一人だったことを、息子に知られたくない。当時、アウグストは公爵家の嫡男。将来は当然、家督を継ぎ、王宮で権勢を振るうと誰もが信じていた。対して、自分は子爵家の次男。家を継ぐことも許されず、単なる貴族の一人に過ぎなかった。だからこそ、アウグストにしがみついた。彼の取り巻きとなることで、上位貴族たちの世界を学び、己の立ち位置を見定めた。――そして、時は流れた。ガブリエルは伯爵家に婿入りし、家を継いだ。アウグストは公爵家を捨て、教会に入り、ついには枢機卿にまで上り詰めた。今、二人の立場は変わった。かつては、公爵家の嫡男と、子爵家の取るに足らぬ次男坊。だが、今はどうだろう?「対等になった……とでも、思っているのか?」玄関の扉が見えた。執事が立ち、彼の到着を待っている。だが、彼の足は自然と緩んだ。「……教会の力に縋るために、アウグストに会いに行くというのに」自嘲気味に笑い、肩を竦める。執事が扉を開いた。「おはようございます、旦那様」「ああ」短く返しながら、ガブリエルは外へと足を踏み出す。御者はすでに馬車の座席に座り、馬を落ち着かせていた。乗り込む前に、ふと庭に目をやる。冬枯れの庭。霜を帯びた樹々の間を、ひんやりとした風が吹き抜けていた。「……そういえば」何気なく、執事に問いかける。「庭師のミアはどうしている」執事は一瞬、言い淀んだ。「……実は、今朝から姿が見えません。探してはおりますが、どうも――」「逃げたか」ガブリエルは鼻で笑った。「早々に逃げ出したか。まあいい」それ以上は関心がないとばかり
◆◆◆◆◆ヴィオレットの突然の訪問に、アルフォンスは驚きながらも扉を開けた。「こんな時間にどうした?」「少し、相談したいことがあって……あら、レオンハルトとお酒を飲んでいらしたのね。お邪魔してごめんなさい……失礼しますね」ヴィオレットは申し訳なさそうに笑い、部屋を後にしようとした。アルフォンスは思わず彼女の腕を掴む。「待て、ヴィオレット」驚いたようにアルフォンスを見上げるヴィオレットと、彼の視線が交わる。そんな二人の間に割って入ったのは、ソファに座っていたレオンハルトだった。「あ~、邪魔なのは俺の方だな。退散するから、お二人でごゆっくり~」レオンハルトが背を預けていたソファから腰を上げようとすると、ヴィオレットは慌てて引き止めた。「邪魔なんかじゃないわ、レオンハルト。よければ、あなたにも知恵を借りたいの。リリアーナのことよ」「リリアーナ?」レオンハルトが首を傾げる。「ええ。リリアーナがドールハウスの人形を、人形用のチェストにぎゅうぎゅうに詰め込んでいたの」「……それはまた、何とも不穏な話だな」アルフォンスが軽く苦笑する。「ええ……どうすればいいのか、困ってしまって……」ヴィオレットの相談に、アルフォンスとレオンハルトは顔を見合わせた。「とにかく、座りなさい」アルフォンスがソファを示すと、ヴィオレットは小さく頷き、腰を下ろした。「お茶にするかい? それとも酒を飲むか、ヴィオレット?」立ち上がりながらレオンハルトが彼女に尋ねる。「……お酒をもらうわ」「了解」レオンハルトは手際よく酒を用意し、ヴィオレットに手渡した。「飲みすぎるなよ」アルフォンスが付け加えると、レオンハルトは肩を竦める。「兄貴はかたすぎるんだよ。飲ませてやれよ、口がよく滑るように」アルフォンスは一瞬、鋭い目を向けたが、特に反論せずグラスの縁をなぞるだけだった。ヴィオレットはグラスを傾け、少しだけ口に含むと、ゆっくりと話し出した。「リリアーナが、ドールハウスのチェストに父親役の人形を押し込んでいたの」アルフォンスの指が止まる。「それを見て、私はすごく気になってしまって…。リリアーナの心が、どんな状態なのか……何を感じて、何を思っているのか……」ヴィオレットの瞳が、不安げに揺れる。「リリアーナはまだ幼いけれど、だからこそ、言葉では説明できな
◆◆◆◆◆王城での仕事を終えたアルフォンスは私室へ戻ると、窓を開けて夜の冷たい風を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。疲れが残る体に、ひんやりとした空気が心地よい。着替えを済ませ、用意された酒を手に取る。グラスの中で琥珀色の液体が揺れ、ほのかな香りが立ち上る。向かいには、当たり前のように座っているレオンハルト・グレイブルック。アルフォンスがルーベンス家の跡継ぎとなった後も、レオンハルトは彼の私室に気兼ねなく入り浸っていた。「ヴィオレットとリリアーナの今日の様子を教えてくれ」アルフォンスはグラスを軽く回しながら、レオンハルトを見やる。この三日間、王城での仕事が立て込み、ヴィオレットと夕食を共にできていない。そのため、彼女とリリアーナの様子が気になっていた。レオンハルトはグラスを持ち上げ、ひと口飲んでから言う。「昼は三人で庭を散歩して、夜は美味しく食事をした。楽しかったぞ」アルフォンスは目を細めたが、次の瞬間、軽くため息をついた。「お前の感想は聞いていない」「まあ、そう言うな」レオンハルトは肩を竦め、悪びれもせず酒を口に含むと、わざとらしく満足そうに喉を鳴らした。「それで? 王城での仕事は忙しいのか?」アルフォンスは苦笑しつつも、グラスを口元に運びながら答えた。「忙しくない日はないな」アルフォンスは静かに答え、酒を一口飲む。「貴族会議の調整、各領地からの報告の精査、国庫管理……どれもこれも時間を食う仕事ばかりだ」琥珀色の液体を喉に流し込みながら、アルフォンスは軽く息をついた。「さすが、王太子殿下の右腕と言われるだけの事はあるな」レオンハルトが肩をすくめると、アルフォンスは鼻で笑う。「右腕というよりは、ただの便利な道具だな。手の届かないところを埋める、それだけの存在だ」そんなことはないだろう、とレオンハルトは思うが、アルフォンスの口ぶりには疲労が滲んでいた。それでも、彼はグラスを置きながら淡々と仕事の様子を語る。レオンハルトは真剣に話を聞いていたが、やがてふと表情を変え、不意に話題を変えた。「……そういえば、ヴィオレットとのことだけど」その名前が出た途端、アルフォンスの手がわずかに止まる。「もう告白はしたのか?」突然の質問に、アルフォンスは目を丸くした。「……なんの話だ?」「とぼけるなよ。お前がヴィオレットを好
◆◆◆◆◆セドリックは恐怖に震えながら、その光景を見つめることしかできなかった。火かき棒を押し付けられ、床をのたうち回るミア。鼻を突く焦げた肉の臭いと、喉を裂くような悲鳴が室内に満ちていく。――熱い。痛い。息が詰まる。頭の奥で、幼い自分の叫び声がこだました。セドリックもまた、父に火かき棒を押し当てられたことがある。鮮明に蘇る記憶に、膝が震え、身体の芯から力が抜けていく。額から冷たい汗が滴り、指先は痺れたように感覚を失っていた。ガブリエルは、転がるミアを冷めた目で見下ろしながら、何の感慨もなく火かき棒を床に捨てる。そして、低い声音で言った。「セドリック」低く、深く響く声が、暗闇から呼びかけるように耳を打つ。セドリックは息を呑み、父の方を向いた。ガブリエルの金の瞳は、炎に照らされ妖しく光っている。「……ち、父上……。」喉が引きつり、声が掠れる。ガブリエルは、杖を突いたまま一歩踏み出した。「お前から離縁届を出すことは許さん」厳格な声が、静寂の中に鋭く響く。「そんなことをすれば、アシュフォード家の瑕疵を認めることになる」杖が床を打つ音がやけに響く。「し、しかし……」 カツンセドリックは弱々しく反論しかけたが、ガブリエルの杖の音で黙り込む。「リリアーナを手放す気か?」瞬間、冷気が背筋を這い上がった。ガブリエルの声は冷ややかに部屋に響く。「ヴィオレットが王家の血を引いていることは、お前も知っているだろう」杖の先で床をゆっくりとなぞる。「私の孫のリリアーナは、その血を引いている」まるで貴重な宝石を語るような声音だった。「リリアーナを女当主にと望んだヴィオレットを、生意気には思っていたが……」一瞬、鼻を鳴らし、軽く嗤う。「だが孫まで手放すことは、私の想定にはない」ガブリエルは炎を背に、影を長く引きながら、ゆっくりと歩く。「リリアーナの夫にと、名乗りを上げている家は何件もある」沈黙の中、杖を突く音だけが一定の間隔で響く。「それらの家からも、鉱山開発に投資させている」淡々と語る口調に、一片の迷いもない。「私は孫を手放さん」燐光を帯びた瞳が、セドリックを射抜いた。「鉱山も、当主の座も!」炎が揺らぎ、影が壁に広がる。ガブリエルは杖を突き、背筋を伸ばしたまま言い放つ。「リリアーナの親権をアシュフォード家が握る為には、
◆◆◆◆◆セドリックが唇を噛みしめ、手紙から顔を上げる。視線の先では、父であるガブリエル・アシュフォードが彼を見据えていた。暖炉の炎が静かに揺れ、微かな薪のはぜる音が響く。部屋の空気は重苦しく、まるで鉛のように胸にのしかかる。「……で、お前はどうするつもりだ?」杖を手にした父の声は静かだったが、張り詰めた緊張感が部屋を支配する。「……私から離縁届を出します」低く絞り出した言葉が、空間を震わせるように響いた。ガブリエルは無言のまま視線を鋭くする。その目には感情の色はない。ただ、冷たく、鋭利な刃のように息子を貫いた。セドリックは無意識に喉を鳴らしながらも続ける。「ヴィオレットとはずっと不仲でしたが、一度は惚れた女です。最後は誠実でありたい」その言葉に、ガブリエルはふっと鼻を鳴らした。「ほぅ……随分と寛容だな、セドリック?」その声音には、皮肉と嘲笑が混じっていた。息子の甘さを見透かしたかのような冷たい響き。セドリックは視線を逸らさず、意を決したように言葉を紡ぐ。「……父上が投資した鉱山開発が上手くいっていれば、持参金も耳を揃えて返したいところです」一瞬、ガブリエルの眉がわずかに動いた。部屋の空気が変わる。セドリックは気付かず、先を続けた。「これを機に……父上は身を引いてください。私がアシュフォード家の当主として事業運営を引き継ぎます」言い切ると、静寂が訪れた。ガブリエルは微動だにせず、セドリックをじっと見つめる。沈黙の中、暖炉の火が揺れる。今年初めて火が入り、部屋に広がるのは煤けた灰の香りと、燻った木材の匂い。ガブリエルは視線をゆっくりと暖炉に移し黙り込む。「私はどうなるの?」沈黙を破ったのは、部屋の隅で縮こまるように立っていたミア・グリーンだった。その声はかすかに震えていたが、かろうじて平静を装っていた。セドリックは鬱陶しそうに視線をやりながらも応じる。「……ルイについては、一旦預かり、ほとぼりが冷めた頃に養子に出すつもりだ」その発言に、ミアの顔色が変わった。「養子先は貴族よね? ただの庶民の家にルイを養子になんて出さないわよね? 最低でも男爵の家でなくては駄目よ。それと、私はどうすればいいの? 貴方の元が無理ならルイと一緒に行くけど……」焦りが滲む声で、ミアは必死にセドリックに詰め寄る。「……何を言っている
◆◆◆◆◆セドリックは無言で手紙を開封した。その手元に視線を落とし、ゆっくりと中身を確認する。「……アルフォンスからか?」ガブリエルが杖で床を軽く叩きながら低い声で尋ねた。「はい、ルーベンス家の当主アルフォンス・ルーベンスからです」セドリックは手紙を見つめ、深く息を吐いた。そして、読み上げを始める。ーー『アシュフォード伯爵ガブリエル・アシュフォード殿、ならびにセドリック・アシュフォード殿へ。まずは、私の妹ヴィオレットが受けた精神的苦痛について、アシュフォード家に抗議の意を表明する。本状において、以下の条件を提示する。これに従うことでのみ、アシュフォード家は私の妹ヴィオレットおよびルーベンス家の名誉を汚さずに済むであろう。第一の条件離縁届を、セドリック殿自らの意思で教会に提出すること。これは、妹が離縁の責任を一方的に負う形にならぬよう配慮したものである。今後、ヴィオレットの名誉がさらに傷つくことがあれば、ルーベンス家として断固たる措置を講じる所存である。第二の条件ルイ・アシュフォードを正式にアシュフォード家の一員として育てること。ルイの存在はすでに周囲に知られており、このまま彼を放置することは貴族社会においてアシュフォード家の信用を損なう行為と見なされる。ルイが幼い身であり、罪なき存在である以上、その将来を保障するのはアシュフォード家の責務である。上記の条件が守られない場合の対処1. ヴィオレットの持参金を即座に引き上げる。これは、妹が持参金を以てしてアシュフォード家を支えている現状を踏まえ、条件履行の強い要請とするものだ。2. アシュフォード家の名誉に関わる情報を公にする可能性を示唆する。特に、ヴィオレットがルーベンス家に戻る理由についての詳細が明るみに出れば、アシュフォード家にとって甚大な影響を及ぼすだろう。期限は本状到着より一ヶ月後までとする。その間に対応がなされない場合、上記の措置を順次実行する。なお、ミア・グリーンに関してはルーベンス家として一切関与しない。彼女の処遇はアシュフォード家に一任する。ただし、彼女が再び問題を引き起こした場合、その責任は全面的にアシュフォード家が負うことになる点を念押ししておく。誠意ある対応を期待している。アルフォンス・ルーベンス』ーーセドリックは手紙を読み終え、無言のまま視線を落